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December 14, 2004

「送る会」で、熱田さんのお義兄さんのお話

11月20日(土)、東京で行われた熱田千華子さんを送る会で、義理のお兄さんのイーデンさんがお話になった内容です。

私は千華子の義理の兄の、イーデン・ヨアヒムです。

まずはじめに、今日のこのお別れの会に来てくださった皆様方、そしてこの会を企画し準備してくださった糸井さんたちに心から感謝をいたします。

8月20日、熱田千華子はボストンで交通事故のため亡くなりました。
このニュースに私たちはもちろんのこと皆さんも大きな衝撃を受けられたことと思います。深い悲しみとともに、いったい何が起こったのか詳細を知りたいと思われていると思います。私から皆さんに情報をお伝えできればと思い、少しお時間をいただきたいと思います。

私たちが事故現場管轄のサマービル警察とMGHマサチューセッツ州総合病院で得た情報をもとにお話します。
8月20日午前9時21分、千華子のアパートからそう遠くない、ワシントンSt.とデーンSt.の交差点で事故が起きました。その日千華子は車で出勤せず自転車で出勤し、ワシントンSt.を西に向かって走っていました。同じ方向に向かっていた大手木材会社の14メートルの大型トラックが、赤信号のためワシントンSt.とデーンSt.の交差点で止まっていました。

トラックの運転手によると、信号が青に変わり、止まっていたワシントンSt.からやや狭いデーンSt.に右折しようとしたとき、右のサイドミラーを確認したそうです。サイドミラーには100メートル後方に自転車で走っている人が見えたそうです。トラックはそのまま右折しはじめたところ、突然音がしたため、車を止め、調べるため降りて、車の下に自転車と人を確認しました。事故発生時の目撃者が今現在もまだいないため、このあたりまでは全部運転手の供述によります。

運転手はすぐ救急車を呼び、3分後には警察が到着していました。事故現場へはサマービル市警察のほかにマサチューセッツ州警察も来ていたとのことです。

15分以内に救急車が到着しました。救急車がマサチューセッツ州総合病院に到着したのは9時50分ごろのようです。千華子を担架からベッドへ移した医師によると、そのとき千華子の体には外傷がほとんどなかったにもかかわらず、体を移す際、内部のダメージの大きさを知ったそうです。2時間の手術が行われましたが、結局千華子を救うことはできなかったそうです。

この事故には目撃者がおらず、事故の経過が不明で、マサチューセッツ州警察とサマービル市警察双方とも、独自に事故原因の調査を続けています。弁護士によると、このような調査のしかたは珍しいということです。

現在、われわれはボストンで弁護士を立て、裁判の準備をしています。事故後の目撃者は何人か出てきていますが、事故の経過を目撃した人は、残念ながらまだ見つかっていません。

弁護士は定期的にメールで進捗状況を報告してくれています。訴訟の前段階の和解の手続きをしているところです。和解が成立しなかったとき、訴訟を起こすことになります。訴訟を起こした場合、全部が終わるまで2年ぐらいかかるということです。

以上が事故の状況と、現在の状況です。

千華子の両親は、今日こちらにくることができませんでしたが、千華子がこのような形で亡くなった事実を、時間がかかるかもしれませんが、少しずつ受け止めようと努力しています。今日、このような会を作ってくださったことに大変感謝しております。

私たちからも、心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
ありがとうございました。

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December 05, 2004

伊藤恵一さんよりメッセージ

* さようなら、熱田ちゃん

私はかつて時事通信社で記者をしておりました伊藤恵一と申します。熱田さんとは、1987年(昭和62年)同期入社、しかも、社会部に配属された2人のうちの一人でした。

熱田さんへのお別れの言葉を述べさせていただく前に、まず、ご両親様をはじめご親族の皆様のお悲しみのほどお察し申し上げます。心からお悔やみ申し上げるとともに、謹んで千華子さんのご冥福をお祈り申し上げます。

ここからは、かつて私が使っていた「熱田ちゃん」という呼び方でお別れの言葉を述べさせてください。少し長くなりますが、よろしくお付き合いください。

熱田ちゃん、君は今日のこの会を僕に知らせに来てくれたのだろうか。先週、Yahoo!Japanのトップページを開いたとき、何故か「熱田ちゃん、元気かな。」とふと思い、「熱田千華子」という名前を、インターネットを始めて以来、初めて検索しました。

そこで全く思いもしない死亡記事に突然触れ、愕然として、本当に涙が止まりませんでした。今まで折りに触れ、熱田ちゃんのことを思い出すことはあっても、名前を検索しようとしたことはなかったのに、あまりにも偶然に、しかしまさにこのお別れ会が開催される直前のこの時期に調べてみようと思ったのは、アメリカ映画の「オールウエイズ」のように、熱田ちゃんが「伊藤さん、ちょっと私の名前、検索してみてよ。大事なお知らせがあるのよ」と耳元で囁いたのだ、としか僕には思えません。それ以来、僕はタイムトラベラーになっています。

1987年4月1日。前日の夜、誘拐されていた三井物産マニラ支店長の若王子信行氏が解放され、会社の人たちの慌ただしさが伝わる中、僕らの入社式は始まった。新入社員代表の挨拶のとき、僕の前に座っていた一人の女性が斜め前に進み出た。熱田ちゃんだった。「今持っている闘志と誇りを決して忘れません。責任感を持って働きます」-。はっきり、堂々と、でも挨拶にしてはちょっとだけ早口に、入社の決意を述べた君を昨日の事のように憶えている。その後、僕らは、編集局の社会部へ。そこで、熱田ちゃんは、時事通信社会部初の女性記者に、そして、僕は社会部初の同期が女性だけの男性記者になった。
 
今考えると、僕らはなかなかいいコンビだったと思う。 お互い率直に意見を言い合っても、けんかになることもなく、言葉のキャッチボールを楽しめた。いつも飄々と、鼻歌でも歌うかのように(実際に歌っているときもあった)、仕事をこなしていく君を、頼もしく思ったものです。男の僕と同じ仕事をして、身体的にきついこともあっただろうに、そんな素振りも見せずにがんばっていた。その辺の事は、このお別れ会でも、ほかの方々からお話があると思うし、そういった話が、「武勇伝」として今もいわれているのかもしれない。

ただ、熱田ちゃん、君は、同期の気安さからか、先輩・後輩にはちょっといいにくいことも僕には、話してくれたね。そんな一端は、君からもらった年賀状などいくつかの手紙にもあらわれていた。一年目の年賀状には、「昨年はいろいろ悩み苦しみましたね。

いつまでも純粋であろう!」とある。二年目の正月は、正に「昭和の終わり」の取材の真っ只中。「張り番で本ばかり読んでいる我々はこの先どうなるのでしょう」と君は書いている。そのあとに続く「去年はもてまくったらしいですね。歌をきかせてください。」というくだりは、熱田記者がつかんだ最初で最後のガセネタだったかもしれない。

そして、三年目は転勤の年。君は、僕の生まれ故郷、北海道の札幌へ、僕は、君の生まれ育った文化圏である関西の神戸へ。札幌から神戸へもらった手紙には「元気ですか。私は市政担当になり、行政の勉強で疲れてます。あなたの故郷札幌は本当にすてきなところですね。大好きです。身体に気をつけてください。」とある。考えてみれば僕らは、一年目から、お互い唯一の社会部同期として、「いろいろあるけどがんばろう」とよく励まし合っていた。そして、三年目の年賀状には、「記者生活はこの春で四年目。いつまでも暗闇の中で不安です。二十五歳になります。なんでもできるような、なにもできないような不思議な気持ちを抱えた一年となりそうです。」と自分の人生に対する大いなる期待と不安との間でゆれる心情を率直に記していた。そしてそれに続けて、こうも書いている。

「冬になって初めて北海道のスゴさを知った。もっと楽して生きていけるところたくさんあるのに。」と。そんな北海道の寒さに驚いていた君が、北海道の姉妹地域であり、寒さの厳しいマサチューセッツ州のボストン近郊に最後の数年間住み続けたのは、君の人柄を慕う多くの素敵な仲間に囲まれていたからなのでしょう。ホームページで拝見したたくさんの君の生き生きとした表情の写真にそれはあらわれていました。

少し長めに熱田さん本人の言葉を引かせていただいたのは、恐らく最初で最後のこの機会に、熱田さんを知る多くの方々に、「武勇伝」なるものとともに、社会部初の女性記者として、そして、二十代前半の社会人として、自分の人生に真摯に向き合っていた熱田さんの当時の姿を、少しでも感じていただければと思ったからです。

それにしても熱田ちゃん、僕は、入社当時の社報「ひびや」に掲載されていた君のプロフィールを改めて読んで、また少し悲しくなってしまったよ。なぜなら、君がそこに、趣味として「サイクリング」と書き、自己PRとして「世界中を旅していろんな人と話してみたい。人生は短い。が、私自身と人間愛だけは見失わずに生きてみせる。」と書いていたからだ。自分自身を見失い、他人にすぐ迎合するような輩が増え、人間愛のかけらもないような事が連日、日本中、世界中で起きている昨今、君は立派に自分の信念で生き抜いていたであろうということは、君の英文のエッセイを読んでみて、容易に推測がつく。返す返すも残念なのは、君のホームページの存在を知らず、メールアドレスが分からなかったので、連絡を取り合えなかったこと。それ以上に残念で悲しかったのは、メールアドレスが分かり、連絡が取り合える状態になったときには、君はこの世界にいなかったこと。

熱田ちゃん、そろそろお別れです。ことの性質上、次にいつ会えるかは、約束しづらいのですが、今度会うときには、あの頃のように右手を頬の前で軽くひらひらと振りながら、「あら、伊藤さん、久しぶり」と言って微笑んでくれるでしょうか?その時まで、君の愛した人たちと、君を愛した人たちとをやさしく見守っていってください。では、それまで、See you again! さようなら、熱田ちゃん。

ビートルズの「イン マイ ライフ」を繰り返し聴きながら  伊藤恵一

(伊藤さんは、送る会にご出席いただけなかったのですが、同じく時事通信社同期入社の日景聡さんに代読していただきました。)

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熱田さんを送る会が東京で開催されました

 アメリカで急逝した熱田千華子さんのお別れの会が、11月20日、東京・有楽町の海外特派員協会で開かれました。熱田さんが卒業した国際基督教大学(ICU)の友人と、渡米直前まで勤めていた時事通信社の同僚、仕事仲間など多数が参列、熱田さんの思い出を語り合いました。

 司会は学生時代の熱田さんの憧れの人だったという三竹直哉さん。花に囲まれた遺影を前に、友人や同僚が熱田さんの仕事ぶりや学生時代の様子、アメリカに渡ってからの生活ぶりを紹介しました。なんとか明るく送ろうという思いは共通だったものの、その才能とキャラクターを惜しむ声が絶えませんでした。

 ご家族からは、お姉さまの熱田万美さんとヨアヒムさんご夫妻が出席され、事故の状況やその後の経緯についてヨアヒムさんから報告がありました。3カ月たった今も、事故を起こしたトラック運転手の証言以外に目撃者がいないことから詳しい状況が分からず、地元警察と州警察による捜査が続いているそうです。

 会の中では、熱田さんが吉田松陰を輩出した杉家の血筋をくんでいるとの紹介もありました。本人がこれについて全く意に介していなかったのは事実ですが、はたから見ると、多くの人に慕われ、常に前向きに新しいことを追い求める彼女の生き方には、松陰がだぶるようにも思えます。

 最後になりましたが、この会を企画された糸井恵さんは、熱田さんの話にいつも登場していた一番の親友でした。会の準備やサイトの更新、ボストンとの連絡を着々と進め、熱田さんの本の出版を実現しようと奔走してくださっています。このような機会を作ってくださった糸井さんに心から感謝すると同時に、お二人の友情を心底うらやましく思います。

(鈴木聖子)

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