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September 15, 2004

8月25日、あこのお葬式

 あこのお葬式は8月25日水曜日、マサチューセッツ州ウォータータウンで行われた。式を執り行ったチベットのラマ僧、ゲシェー・ツルガ師は、同州メドフォードにあるクルクッラ・センターの居住僧。あこの訃報を受けるとすぐ、クルクッラ・センターは彼女のための祈りに入った。祈りは今も続いていて、49日が過ぎるまで続く。

 お葬式ではゲシェー・ツルガ師があこのために祈りを捧げ、参列者一同がチベットの聖典を英語で唱和した。続いてあこのお父さんが立ち、アメリカと日本でのあこの同僚から寄せられた追悼の言葉を紹介した。その後全員で2回目の祈りの朗読。最後に、参列者に1本ずつ花が配られ、1人ひとりがあこの棺に添えていった。

 クルクッラ・センターについての詳しい情報はwww.kurukulla.orgで参照できる。

 式は形式ばらず、それでいてとても神聖さを感じさせ、あこも間違いなくこの場所を気に入ってくれたと僕は思う。

 今知ったばかりだが、最高指導者ダライ・ラマ師も1年前にこのセンターを訪れていた。ちょうど1年前の9月12日のことだ。

 僕はお葬式の朝、サイベルのお母さんと一緒にゲシェー・ツルガ師を迎えに行き、会場までお供した。ラマ僧は車に乗り込んだ瞬間から低く、リズミカルなつぶやくような声で唱え始めた。助手はウォータータウンに行くのに、かなり回り道をした。サマービルとケンブリッジを過ぎ、そして奇妙なことに、あこと僕がいつも一緒に出かけていた通りに入った。その間ずっと、ラマの祈りが続く。マス・アベニューを抜け、ハーバード・スクェアが過ぎていった。

(セス・マーシュ/翻訳・鈴木聖子)

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September 05, 2004

News: あこを記念する美術賞を創設

熱田千華子さんは、マサチューセッツ州ロックポート市のロックポート・アート協会で行われていた月曜日夜のスケッチ教室に参加し、またアーティストたちのモデルとしてポーズを取ったこともあります。アート協会では、彼女を悼んで以下の発表をしました。

まず彼女をモデルにアーティスト、テレサ・パーギャルさんが描いた油彩画が、現在、アート協会内に展示されています。(現在その絵をこのサイトに掲載できるよう、画像を送っていただくお願いをしています。)

また、スケッチ教室のかつての彼女の仲間たち、「スケッチ・グループ」が、パーギャルさんからこの絵を購入してご遺族に贈るため、カンパを始めています。

集まった金額が$1,500に達した時点で、絵はスケッチ・グループに売却され、スケッチ・グループから、日本のご遺族に送られます。パーギャルさんはそのお金で、熱田さんを記念した「スケッチ・グループ賞」を創設すると発表しました。毎年二月にスケッチ教室が開催する展覧会で授賞式が行われます。

また来年二月の展覧会は、熱田さんをモデルにした作品で構成し、彼女に捧げるイベントとなります。

ロックポート・アート協会のウェブサイトは www.rockportartassn.org です。

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September 04, 2004

8月26日、メモリアル・サービスでのスピーチ

8月26日夕、メモリアル・サービスで、友人のセス・マーシュさんがしてくれたスピーチです。


 CSCはあこが1年間勤めたコンピューターの会社だ。そこであこの「さよならパーティー」が開かれた時のこと。彼女は椅子に深く越し掛け、ある事業計画を口にした。

 あこは想像力溢れる女性で、何でも一直線に突っ走るタイプだった。実は前にも僕はあこの「計画」を聞いたことがある。あれは確か、フォーチュンクッキーの工房を始めようとか何とか言っていた。2人で中華料理を食べた時にあこのフォーチュンクッキーのおみくじは、あまりハッピーなものではなくて、彼女はえらく落ち込んでいたんだ。食事が終わると「私、いいこと思いついた」と工房の話を始めた。

 パーティーの席上、あこが発表した「計画」も同じ類のものだった。「バーをやろうと思うの。もちろんちょっと変った店なんだけどね」。

 さよならパーティーには20人くらいの同僚が集まっていた。実際、あの時CSCは大変な目に合っていたころで、業績もむちゃくちゃだった。仲間は次々と解雇されていった。あこは先手を打ってクビを言い渡される前に辞めたわけだ。でも他の仲間も解雇通告をじっと待っているような状況だった。だからこのパーティーは最後のお祭り騒ぎってところだ。みんな明るくてちょっとハイになっていた。でも先は長くないことくらいみんなよく分かっていたんだ。

 仲間たちはあこの「バー計画」に耳を傾けた。が、だんだん困惑した表情に変っていく。

 「あこの店」はほかの店とちょっと違う。まず、2人までしかお客は中に入れない。狭くて、明かりもちょっと暗め。だから向こうの端までは見えない。ジャズが静かにリズムを刻む。表の通りは大騒ぎで混雑しているのに、この店に入るとしーんとして暗い。もし誰かと一緒になったとしても会話を交わすことなどはしない。

 CSCの仲間はじっと聞いていたけれど、信じられないといった顔つきだった。
「お客がたった2人だけ?」と素っ頓狂な声。「それじゃあ1週間でつぶれちゃうわよ」「何にもなくなっちゃうよ」「そんなのバカみたいじゃん!」
「そういうことじゃないのよ」とあこが手をヒラヒラさせてテーブルの周りのみんなを黙らせた。「あのさ、あのね」と次はバーテンダーの話を続ける。バーテンはすごく寡黙でさ、
じっと影に隠れちゃってるのよね。
 あこはバーテンがお客にどうやって接するのかをやって見せた。
 そっと近寄ってきて手をこうやってちょっとだけ上げるわけ。でね何かボソボソってささやくの。絶対ベラベラしゃべったりしないんだから。お客が何か考えたり、思いついたりするとね。そのバーテンは二言、三言ささやくの。それを聞くとお客の考えがささっとまとまるのよ。あ、そうかそうかって。だからさ、こんがらがって答えが欲しいなあって時に行ったらいいわけ。お酒なんて別に飲まなくたっていいんだから。

 同僚たちはそれを聞いて急に騒ぎ出した。いろいろな事を口々に言い出したんだ。月曜日の夜はさー、フットボールのスペシャルデーにしたら?サービスタイムはいつにする?ダーツもいいよねえ、そうだ、トップレスのお姉ちゃんを置くってのはどう?みんな「あこの店」を成功させようと必死だった。そしてあこのアイデアを何とか変えさせようとした。
 でもあこは頑固だった。その夜はああでもない、こうでもないとふざけあって更けていった。さて、とうとうお開きで別れる時になると、みんなあこを抱きしめて頑張ってねと言った。僕たちが外に出ると後ろの方から「あまり意固地になるなよー」とか「トップレスの女の子は使ってみてくれよなー」とか声が聞こえた。

 その夜、あこは大した役者だった。どれだけ冗談を言いまくっていたかわからないくらいだ。でも僕は思うんだ。儲けばっかり考える事ないんじゃないの、ホッとしたい時にいつでも立ち寄れる店があったっていいじゃないねえって言いたかったんじゃないかな。

 ある日あこが部屋から電話をかけてきた。気分が悪くて横になっていると言う。僕はすぐに彼女を訪ねた。熱がある。寒気もするし弱り果てていた。そのうち治るかと思っていたけれど、次の日になっても変らなかった。医者に行って薬をもらってきたが、熱はなかなか下がらない。

 突然、あこが起き上がってベッドサイドのテーブルに置いてあったノートを掴んだ。髪はボサボサで、頭を起こすだけでもクラクラしているようだった。でもその顔には何か決意のようなものが感じ取れた。「ねえ、何やってんだよ」と僕。「私、これから治すわよ」とあこは答えた。

 あこは僕にペンと時計を取ってと言った。これから自分の熱を記録するんだと言う。熱が上がったなと思ったら、体温計で熱を測り時間も一緒に書きとめる。ちょっとひいてきたかなと思った時も書いておくんだと説明してくれた。変な治し方だなと思ったが、それがあこのやり方だった。時計を握り締めてベッドの中でガタガタ震えている。腹這いになってへんちくりんな字だったけれど、自分の体温と時間を記録していった。次の日にはその記録が何ページにも増えた。快方に向かっていたが、完全に治るまで記録は続けられた。

 後になって考えてみると、あこはいつもそうだったんだなと思い当たった。もっとうまくなりたい、じっくり考えたい、情報収集しなきゃ。そんな時あこはいつでもペンと紙を手放さなかった。

 あこと僕がモントリオールに旅をした時のことだ。僕たちは騒がしい街の真ん中にあるユースホステルに宿を取った。フロント係は若い男だった。パリッと決めていてなかなか格好よかった。
 あこはすぐに「イイ男エディー」とあだ名をつけた。彼はエディーって名前ではなかったように思うけれど、とにかくいいやつだった。地図をくれて一番いいバスルームのある部屋を割り当ててくれた。ロビーで3人で長いことおしゃべりもした。
 「イイ男エディー」はあんたたちツイてるよ、と言った。先週は熱波でさ、暑くてどこにも行けやしなかった。部屋の中でじーっとしてるしかなかったんだぜ。ホント、ラッキーだよ。
 エディーは部屋に案内して、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。彼が行ってしまうと、あこは部屋の中をズルズルと足を引きずりながら歩き回った。
 「あんたたちツイてるよ、か」あこは言った。ふーん。ツイてるんだ。もう一度口の中でボソボソと繰り返した。その言葉の響きが気に入ったようだった。「イイ男エディー」は最初から分かっていたのね。私たちの間には特別な素敵な何かがありそうだってことを。「ツイてる」と声に出すと、それはますます真実味を帯びてくる。
 僕は荷物をベッドの上に放り投げた。あこは窓際に立ち、眼下の通りを見下ろした。車がたくさん行き交っていた。ファーストフードのお店のギラギラした明かりが射し込んできていた。酔っ払いが近くのバーからドッと出て来た。何だかうるさい夜になりそうだ。
 あこは頭を窓に押しつけた。そして「私たちツイてるわね」とつぶやいた。

(セス・マーシュ/翻訳・香取由美)

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September 03, 2004

8月26日夕、メモリアル・サービス

 8月26日夕、ボストン郊外のサマービルで、熱田千華子さんをしのぶメモリアル・サービスが開かれました。マサチューセッツで親しくしていた友人たちにお別れの機会をというご家族の配慮で、会場は元ルームメイトのデブ・ペックさんが自宅を提供してくれました。

 「アコ」を愛した友人たち、50人あまりが次々と駆けつけました。中庭には友人のクリスチャンさんが写したアコさんの美しい写真。グロースターのビーチを歩く姿、子供のような無邪気な笑顔、スイレンの池を泳ぐ素足――。

 友人が持ち寄ったたくさんの花束とロウソクの光に囲まれ、デブさんの司会でセレモニーが始まると、友人が1人ずつ前に出て、それぞれアコさんの思い出を披露しました。自分にとってアコさんがどれほど特別な人だったかを、競い合うように。明るくポジティブで、鋭い観察力の持ち主だったアコさんのエピソードはどれもユーモアにあふれ、みんな大笑いしながら、涙を流していました。長い付き合いの人も、1度だけの出会いの人も、アコさんが出会う人たちに鮮烈な印象を残していたことがしのばれます。これほどたくさんの素敵な人たちに愛されていたことが、何よりもアコさんの人柄を物語っていました。

 BGMにはアコさんが大好きだったU2やサザンオールスターズの音楽。英語のコラムとポエムをまとめた作品集と、アコさんが旅先で集めて大切に取っていた石のコレクションが参列者に配られました。

 友人のランディさんが写した大きなポートレートの中で、にっこりと微笑むアコさん。その前に遺骨が置かれ、セレモニーの締めくくりにお父様の熱田敏弘さんから参列者1人ひとりにお線香が渡されて、遺影の前に供えて黙祷を捧げました。セレモニーが終わってもみんななかなか会場をあとにできず、夜が更けるまで、アコさんの思い出を語り合っていました。

(鈴木聖子)

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September 02, 2004

2004年8月31日付 The Gloucester Daily Times掲載の死亡記事

熱田千華子(39)。8月20日、自転車で通勤途中、交通事故に遭い、マサチューセッツ・ジェネラル・ホスピタルで亡くなった。

「あこ」の愛称で親しまれた彼女は、1998年から2001年までマサチューセッツ州・グロースターに住んだ。事故当時はサマービル在住だったが、グロースターは彼女にとって特別な場所であり続け、ここに住む友人を訪ねることも多かった。

彼女は日本の大阪生まれ。東京の大学を卒業し、時事通信社にジャーナリストとして勤務した後、1996年、東京からアメリカ人の夫と共にマサチューセッツ州ウェルフリートに移り住んだ。結婚生活はその後すぐに破綻したが、千華子はボストン近郊に留まり、数年後、ロックポートのオープン・ブック・システムズ社に入社。亡くなった当時は、ブライトンのTWI社に、翻訳家として、またタイガー・ウッズ・オフィシャル・ウェブサイト日本版のウェブデザイナーとして勤務していた。

詩をよくし、写真を学び、美術や演技の講習を受けるなど、熱意と好奇心が旺盛で、芸術的才能にあふれていた。ロックポート芸術協会では、ドローイングを学ぶと同時に、他のアーティストのモデルとしてポーズも取った。

グロースターについて書いたものも含め、彼女の文章の多くは、インターネット上で読むことができる。詩の作品の相当数がwww.redpaper.comに、またそれ以外のものは、www.capeannweb.com上のドッグタウン・アンコモンというサイトにアップされている。先月(7月)、彼女はサマービルの芸術祭であるアートビート2004に参加して自作の詩を朗読している。新しく作られたサイト、www.ako.name上では、彼女にあてたメッセージや、彼女の書いた文章が読める。

彼女はどんなテーマや考え方にも魅力を見出すことができ、また常に新しい体験や友人を求めていた。特に好きだったのは、熱いお風呂に入ったり、グッド・ハーバー海岸で泳ぐなど、水の中にいることと、旅行をすること。それも、自転車に乗るか、自分の足で歩き回るのを好んだ。ささやかな茶目っ気と、ひそかなユーモアのセンスをもって、毎日の生活の中にあるものを観察する人だった。

熱田千華子は、大阪在住の家族 ―― ご両親の熱田敏弘・ 眞知子夫妻と、姉の万美、その夫、ヨアヒム・イーデン ―― を残して旅立った。

(翻訳)

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2004年8月21日付The Boston Globe紙に掲載の事故の記事

サマービル

自転車の女性、トラックにはねられ死亡

警察は、昨日の朝、自転車に乗っていた39歳の女性が、木材配達のトラックにはねられた後死亡したと発表した。サマービル警察のポール・アプトン警部補によると、この事故は午前9時21分頃、ワシントン通りとデイン通りの角で発生。この女性の身元は、近親者への連絡がすんでいないため明らかにされていないが、救急車でマサチューセッツ・ジェネラル・ホスピタルへ運ばれ、そこで死亡が宣告された。アプトンによれば、事故原因は現在調査中で、トラックの運転手に対する告発はされていない。

(翻訳)

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このサイトについて

このサイトは、2004年8月20日、アメリカで急逝した熱田千華子さん(通称「あこ」)の、日米両国にいる数多い友人たちが彼女をしのび、悲しみを分かち合うためのものです。

彼女の生前の活動や、サマービルでのお葬式の様子、事故の詳細や、ボストン在住の友人たちの声をお届けすると同時に、今後、日本で執り行うイベントの連絡を掲載する予定です。

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