September 04, 2005

ボストンで熱田さんをしのぶ会

熱田千華子さんの急逝から1年、ボストンで彼女をしのぶ集まりが、8月27日に開かれました。主催は出口真紀子さん。ルームメイトと一緒に住んでいるボストン・ブライトンの自宅を開放し、手料理などを準備して友人たちを招いてくれました。

千華子さんの友人やその知人、家族など20人ほどが集まりました。出席できなかった人も、千華子さんのお母さん、熱田真知子さんからは手作りのケーキやお菓子が届き、写真の中で微笑む千華子さんの横には、友人のエリックが丹精込めて作った骨壷。日本の糸井恵さんから送られた黄色い花束は鮮やかに会場を彩っていました。

「あこがこの写真を撮りに来たとき、どんな服を着ていけばいい?って聞くから、白以外なら何でもいいよ、と答えたら、当日、よりによって白いTシャツ姿で現れたんだ」(ランディ)
「うちに来たときにみんなで野球をやったの。あこももちろんヒットを打ったわよ。泳ぐのも大好きだったしね」(セスのお母さん)
いつも前向きでユーモアたっぷりの千華子さんのエピソードは1年たっても尽きることがなく、友人たちの話の中に、彼女の表情や仕草がありありと浮かんできました。

「普陀洛伽院慧光華雰大姉」。壁に貼られていた千華子さんの戒名は、「ラマ教でいう普陀洛の世界に光輝き、華やかに香りつつ存在する」という意味だそうです。真紀子さんがこれを英語で紹介すると、みんな関心した様子で聞き入っていました。千華子さんの「華」の漢字には「brilliant」の意味があり、これが戒名に使われているという説明も、アメリカの人たちには興味深かったようです。

ボストンの友人の間では、千華子さんをしのぶイベントがいろいろ企画されています。自然を愛した彼女のために記念の木を植えようという話や、千華子さんがボストンに移る前に住んでいたグロースターという港町では、千華子さんの名を刻んだメモリアルベンチを作る話が進んでいるそうです。実現したら、またこのサイトで報告させていただければと思っています。

(鈴木聖子)

(なお、熱田千華子さんの故郷大阪では、ご遺族による一周忌が、8月13日に営まれました。)

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December 14, 2004

「送る会」で、熱田さんのお義兄さんのお話

11月20日(土)、東京で行われた熱田千華子さんを送る会で、義理のお兄さんのイーデンさんがお話になった内容です。

私は千華子の義理の兄の、イーデン・ヨアヒムです。

まずはじめに、今日のこのお別れの会に来てくださった皆様方、そしてこの会を企画し準備してくださった糸井さんたちに心から感謝をいたします。

8月20日、熱田千華子はボストンで交通事故のため亡くなりました。
このニュースに私たちはもちろんのこと皆さんも大きな衝撃を受けられたことと思います。深い悲しみとともに、いったい何が起こったのか詳細を知りたいと思われていると思います。私から皆さんに情報をお伝えできればと思い、少しお時間をいただきたいと思います。

私たちが事故現場管轄のサマービル警察とMGHマサチューセッツ州総合病院で得た情報をもとにお話します。
8月20日午前9時21分、千華子のアパートからそう遠くない、ワシントンSt.とデーンSt.の交差点で事故が起きました。その日千華子は車で出勤せず自転車で出勤し、ワシントンSt.を西に向かって走っていました。同じ方向に向かっていた大手木材会社の14メートルの大型トラックが、赤信号のためワシントンSt.とデーンSt.の交差点で止まっていました。

トラックの運転手によると、信号が青に変わり、止まっていたワシントンSt.からやや狭いデーンSt.に右折しようとしたとき、右のサイドミラーを確認したそうです。サイドミラーには100メートル後方に自転車で走っている人が見えたそうです。トラックはそのまま右折しはじめたところ、突然音がしたため、車を止め、調べるため降りて、車の下に自転車と人を確認しました。事故発生時の目撃者が今現在もまだいないため、このあたりまでは全部運転手の供述によります。

運転手はすぐ救急車を呼び、3分後には警察が到着していました。事故現場へはサマービル市警察のほかにマサチューセッツ州警察も来ていたとのことです。

15分以内に救急車が到着しました。救急車がマサチューセッツ州総合病院に到着したのは9時50分ごろのようです。千華子を担架からベッドへ移した医師によると、そのとき千華子の体には外傷がほとんどなかったにもかかわらず、体を移す際、内部のダメージの大きさを知ったそうです。2時間の手術が行われましたが、結局千華子を救うことはできなかったそうです。

この事故には目撃者がおらず、事故の経過が不明で、マサチューセッツ州警察とサマービル市警察双方とも、独自に事故原因の調査を続けています。弁護士によると、このような調査のしかたは珍しいということです。

現在、われわれはボストンで弁護士を立て、裁判の準備をしています。事故後の目撃者は何人か出てきていますが、事故の経過を目撃した人は、残念ながらまだ見つかっていません。

弁護士は定期的にメールで進捗状況を報告してくれています。訴訟の前段階の和解の手続きをしているところです。和解が成立しなかったとき、訴訟を起こすことになります。訴訟を起こした場合、全部が終わるまで2年ぐらいかかるということです。

以上が事故の状況と、現在の状況です。

千華子の両親は、今日こちらにくることができませんでしたが、千華子がこのような形で亡くなった事実を、時間がかかるかもしれませんが、少しずつ受け止めようと努力しています。今日、このような会を作ってくださったことに大変感謝しております。

私たちからも、心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
ありがとうございました。

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December 05, 2004

伊藤恵一さんよりメッセージ

* さようなら、熱田ちゃん

私はかつて時事通信社で記者をしておりました伊藤恵一と申します。熱田さんとは、1987年(昭和62年)同期入社、しかも、社会部に配属された2人のうちの一人でした。

熱田さんへのお別れの言葉を述べさせていただく前に、まず、ご両親様をはじめご親族の皆様のお悲しみのほどお察し申し上げます。心からお悔やみ申し上げるとともに、謹んで千華子さんのご冥福をお祈り申し上げます。

ここからは、かつて私が使っていた「熱田ちゃん」という呼び方でお別れの言葉を述べさせてください。少し長くなりますが、よろしくお付き合いください。

熱田ちゃん、君は今日のこの会を僕に知らせに来てくれたのだろうか。先週、Yahoo!Japanのトップページを開いたとき、何故か「熱田ちゃん、元気かな。」とふと思い、「熱田千華子」という名前を、インターネットを始めて以来、初めて検索しました。

そこで全く思いもしない死亡記事に突然触れ、愕然として、本当に涙が止まりませんでした。今まで折りに触れ、熱田ちゃんのことを思い出すことはあっても、名前を検索しようとしたことはなかったのに、あまりにも偶然に、しかしまさにこのお別れ会が開催される直前のこの時期に調べてみようと思ったのは、アメリカ映画の「オールウエイズ」のように、熱田ちゃんが「伊藤さん、ちょっと私の名前、検索してみてよ。大事なお知らせがあるのよ」と耳元で囁いたのだ、としか僕には思えません。それ以来、僕はタイムトラベラーになっています。

1987年4月1日。前日の夜、誘拐されていた三井物産マニラ支店長の若王子信行氏が解放され、会社の人たちの慌ただしさが伝わる中、僕らの入社式は始まった。新入社員代表の挨拶のとき、僕の前に座っていた一人の女性が斜め前に進み出た。熱田ちゃんだった。「今持っている闘志と誇りを決して忘れません。責任感を持って働きます」-。はっきり、堂々と、でも挨拶にしてはちょっとだけ早口に、入社の決意を述べた君を昨日の事のように憶えている。その後、僕らは、編集局の社会部へ。そこで、熱田ちゃんは、時事通信社会部初の女性記者に、そして、僕は社会部初の同期が女性だけの男性記者になった。
 
今考えると、僕らはなかなかいいコンビだったと思う。 お互い率直に意見を言い合っても、けんかになることもなく、言葉のキャッチボールを楽しめた。いつも飄々と、鼻歌でも歌うかのように(実際に歌っているときもあった)、仕事をこなしていく君を、頼もしく思ったものです。男の僕と同じ仕事をして、身体的にきついこともあっただろうに、そんな素振りも見せずにがんばっていた。その辺の事は、このお別れ会でも、ほかの方々からお話があると思うし、そういった話が、「武勇伝」として今もいわれているのかもしれない。

ただ、熱田ちゃん、君は、同期の気安さからか、先輩・後輩にはちょっといいにくいことも僕には、話してくれたね。そんな一端は、君からもらった年賀状などいくつかの手紙にもあらわれていた。一年目の年賀状には、「昨年はいろいろ悩み苦しみましたね。

いつまでも純粋であろう!」とある。二年目の正月は、正に「昭和の終わり」の取材の真っ只中。「張り番で本ばかり読んでいる我々はこの先どうなるのでしょう」と君は書いている。そのあとに続く「去年はもてまくったらしいですね。歌をきかせてください。」というくだりは、熱田記者がつかんだ最初で最後のガセネタだったかもしれない。

そして、三年目は転勤の年。君は、僕の生まれ故郷、北海道の札幌へ、僕は、君の生まれ育った文化圏である関西の神戸へ。札幌から神戸へもらった手紙には「元気ですか。私は市政担当になり、行政の勉強で疲れてます。あなたの故郷札幌は本当にすてきなところですね。大好きです。身体に気をつけてください。」とある。考えてみれば僕らは、一年目から、お互い唯一の社会部同期として、「いろいろあるけどがんばろう」とよく励まし合っていた。そして、三年目の年賀状には、「記者生活はこの春で四年目。いつまでも暗闇の中で不安です。二十五歳になります。なんでもできるような、なにもできないような不思議な気持ちを抱えた一年となりそうです。」と自分の人生に対する大いなる期待と不安との間でゆれる心情を率直に記していた。そしてそれに続けて、こうも書いている。

「冬になって初めて北海道のスゴさを知った。もっと楽して生きていけるところたくさんあるのに。」と。そんな北海道の寒さに驚いていた君が、北海道の姉妹地域であり、寒さの厳しいマサチューセッツ州のボストン近郊に最後の数年間住み続けたのは、君の人柄を慕う多くの素敵な仲間に囲まれていたからなのでしょう。ホームページで拝見したたくさんの君の生き生きとした表情の写真にそれはあらわれていました。

少し長めに熱田さん本人の言葉を引かせていただいたのは、恐らく最初で最後のこの機会に、熱田さんを知る多くの方々に、「武勇伝」なるものとともに、社会部初の女性記者として、そして、二十代前半の社会人として、自分の人生に真摯に向き合っていた熱田さんの当時の姿を、少しでも感じていただければと思ったからです。

それにしても熱田ちゃん、僕は、入社当時の社報「ひびや」に掲載されていた君のプロフィールを改めて読んで、また少し悲しくなってしまったよ。なぜなら、君がそこに、趣味として「サイクリング」と書き、自己PRとして「世界中を旅していろんな人と話してみたい。人生は短い。が、私自身と人間愛だけは見失わずに生きてみせる。」と書いていたからだ。自分自身を見失い、他人にすぐ迎合するような輩が増え、人間愛のかけらもないような事が連日、日本中、世界中で起きている昨今、君は立派に自分の信念で生き抜いていたであろうということは、君の英文のエッセイを読んでみて、容易に推測がつく。返す返すも残念なのは、君のホームページの存在を知らず、メールアドレスが分からなかったので、連絡を取り合えなかったこと。それ以上に残念で悲しかったのは、メールアドレスが分かり、連絡が取り合える状態になったときには、君はこの世界にいなかったこと。

熱田ちゃん、そろそろお別れです。ことの性質上、次にいつ会えるかは、約束しづらいのですが、今度会うときには、あの頃のように右手を頬の前で軽くひらひらと振りながら、「あら、伊藤さん、久しぶり」と言って微笑んでくれるでしょうか?その時まで、君の愛した人たちと、君を愛した人たちとをやさしく見守っていってください。では、それまで、See you again! さようなら、熱田ちゃん。

ビートルズの「イン マイ ライフ」を繰り返し聴きながら  伊藤恵一

(伊藤さんは、送る会にご出席いただけなかったのですが、同じく時事通信社同期入社の日景聡さんに代読していただきました。)

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熱田さんを送る会が東京で開催されました

 アメリカで急逝した熱田千華子さんのお別れの会が、11月20日、東京・有楽町の海外特派員協会で開かれました。熱田さんが卒業した国際基督教大学(ICU)の友人と、渡米直前まで勤めていた時事通信社の同僚、仕事仲間など多数が参列、熱田さんの思い出を語り合いました。

 司会は学生時代の熱田さんの憧れの人だったという三竹直哉さん。花に囲まれた遺影を前に、友人や同僚が熱田さんの仕事ぶりや学生時代の様子、アメリカに渡ってからの生活ぶりを紹介しました。なんとか明るく送ろうという思いは共通だったものの、その才能とキャラクターを惜しむ声が絶えませんでした。

 ご家族からは、お姉さまの熱田万美さんとヨアヒムさんご夫妻が出席され、事故の状況やその後の経緯についてヨアヒムさんから報告がありました。3カ月たった今も、事故を起こしたトラック運転手の証言以外に目撃者がいないことから詳しい状況が分からず、地元警察と州警察による捜査が続いているそうです。

 会の中では、熱田さんが吉田松陰を輩出した杉家の血筋をくんでいるとの紹介もありました。本人がこれについて全く意に介していなかったのは事実ですが、はたから見ると、多くの人に慕われ、常に前向きに新しいことを追い求める彼女の生き方には、松陰がだぶるようにも思えます。

 最後になりましたが、この会を企画された糸井恵さんは、熱田さんの話にいつも登場していた一番の親友でした。会の準備やサイトの更新、ボストンとの連絡を着々と進め、熱田さんの本の出版を実現しようと奔走してくださっています。このような機会を作ってくださった糸井さんに心から感謝すると同時に、お二人の友情を心底うらやましく思います。

(鈴木聖子)

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October 23, 2004

時事通信バンコク支局 岡本登さんからのメッセージ

Fri, 22 Oct 2004 11:40:08 +0700

かつて同僚だった熱田さんの訃報と、今回の会について、東京の社僚から連絡がありました。彼女と一時期、仕事をした者として、この機会に、ご両親様に心からお悔やみ申し上げ、謹んでご冥福をお祈り致します。

 81年入社の小生が、長崎支局などを経て社会部の第5方面担当(池袋署詰め)のサツ回りを担当していた頃、熱田さんが、社会部初の女性記者としてサツ回りの部下として配属されました。上司も含め、女性記者の扱い方がうまく分からず、戸惑うことが多かったのですが、彼女は怒鳴られてもへこたれることなく、周囲に安堵感を与える存在でした。

 警視庁の記者クラブに上がって、ナベをつつき、大酒を飲む機会もかなりありましたが、クラブのおばちゃんにたいそう気に入られ、われわれが息巻いているころ、彼女は仮眠室でいびきをかいて寝ていることもしばしばでしたが、決して憎まれ役にはならないキャラクターの持ち主でした。

 その後、小生は南米勤務となり、最後に会ったのは、帰国後、彼女が文化部の記者だった頃だと思います。その後、退社を知り、アメリカでの生き生きした生活ぶりを何度か雑誌で拝見していました。
 思えば、入社する以前から、あるいは留学などを通じて、どんな型にもはまらない、独立心旺盛な性格が培われていたのだと思います。だからこそ、退社後、アメリカに渡った後の表情のほうがずっと、より輝いて見えます。彼女の性格、生き方には、さまざまな制約の多い日本の社会や企業にいるより、外の空気のほうが合っていたのだろうと、遺影を拝見しながら改めて思います。

 熱田千華子は、まさに駆け出しのサツ回りの頃、当時も今も珍しい女性の鮨職人と懇意になり、そのことを嬉しそうに小生に話してくれたことを思い出します。

 「女性の温かな掌で握る鮨には、その体温が移って、男性の職人が握った鮨よりまずいと言われるらしいが、そんなことはない。気持ちがこもった鮨に、握り手が女であろうが、男だろうが関係ないっ。一度お誘いしますから、ぜひ」。

 あれから、10数年。熱田が薦めてくれた鮨を一緒に頬ばることなく、最期になりました。どうぞ、安らかに。合掌。

時事通信バンコク支局 岡本 登 拝

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October 20, 2004

11月20日(土)、東京でお別れの会を開きます

下記のとおり、去る8月20日にアメリカで急逝した熱田千華子さんにお別れする会を、東京で開くことになりました。

日 時:11月20日(土)午後3時~受付開始

場 所:東京・有楽町の海外特派員協会(The Foreign Correspondents' Club of Japan)
〒100-0006 東京都千代田区1-7-1有楽町電気ビル北館20階
    代表電話:03-3211-3161
    地図: http://www.fccj.or.jp/static/aboutus/map.php

主 催:熱田さんの友人

プログラムの詳細は未定ですが、熱田さんが亡くなるまで八年住んだ米国・ボストンでの様子をご報告し、また数人の旧友、元同僚の方などに、熱田さんの思い出を話していただく予定です。話をしたいとご希望の方は、出席のご連絡とともにお知らせください。

会 費:3,500円(当日、受付でお願いします)

ご出欠:お手数ですが、11月8日(月)までに、メールで糸井恵あて、
(1)出席の方のお名前、
(2)熱田さんとのご関係
(3)ご住所、お電話番号、メールアドレスなどのご連絡先を、お知らせください。

糸井あてのメールは、このサイトの熱田さんの写真の下、「プロフィール」をクリックし、「コンタクト」欄の「メール送信」から、お送りいただけます。

お問い合わせ:同じく糸井あてにメールでお寄せください。

現在、大学時代からの友人と、通信社時代の同僚の方々には、仮の連絡網のような形でご連絡していますが、おそらく、連絡の行き届かない方も大勢いらっしゃると思います。なるべく多くの方にご出席いただきたいので、連絡されていないと思い当たる方がおいでになりましたら、お声をおかけください。

もし、お名前しかわからず、現在のご連絡先が不明というような方の場合でも、お調べする方法があるかもしれませんので、お知らせだいただければ幸いです。

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September 15, 2004

8月25日、あこのお葬式

 あこのお葬式は8月25日水曜日、マサチューセッツ州ウォータータウンで行われた。式を執り行ったチベットのラマ僧、ゲシェー・ツルガ師は、同州メドフォードにあるクルクッラ・センターの居住僧。あこの訃報を受けるとすぐ、クルクッラ・センターは彼女のための祈りに入った。祈りは今も続いていて、49日が過ぎるまで続く。

 お葬式ではゲシェー・ツルガ師があこのために祈りを捧げ、参列者一同がチベットの聖典を英語で唱和した。続いてあこのお父さんが立ち、アメリカと日本でのあこの同僚から寄せられた追悼の言葉を紹介した。その後全員で2回目の祈りの朗読。最後に、参列者に1本ずつ花が配られ、1人ひとりがあこの棺に添えていった。

 クルクッラ・センターについての詳しい情報はwww.kurukulla.orgで参照できる。

 式は形式ばらず、それでいてとても神聖さを感じさせ、あこも間違いなくこの場所を気に入ってくれたと僕は思う。

 今知ったばかりだが、最高指導者ダライ・ラマ師も1年前にこのセンターを訪れていた。ちょうど1年前の9月12日のことだ。

 僕はお葬式の朝、サイベルのお母さんと一緒にゲシェー・ツルガ師を迎えに行き、会場までお供した。ラマ僧は車に乗り込んだ瞬間から低く、リズミカルなつぶやくような声で唱え始めた。助手はウォータータウンに行くのに、かなり回り道をした。サマービルとケンブリッジを過ぎ、そして奇妙なことに、あこと僕がいつも一緒に出かけていた通りに入った。その間ずっと、ラマの祈りが続く。マス・アベニューを抜け、ハーバード・スクェアが過ぎていった。

(セス・マーシュ/翻訳・鈴木聖子)

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September 05, 2004

News: あこを記念する美術賞を創設

熱田千華子さんは、マサチューセッツ州ロックポート市のロックポート・アート協会で行われていた月曜日夜のスケッチ教室に参加し、またアーティストたちのモデルとしてポーズを取ったこともあります。アート協会では、彼女を悼んで以下の発表をしました。

まず彼女をモデルにアーティスト、テレサ・パーギャルさんが描いた油彩画が、現在、アート協会内に展示されています。(現在その絵をこのサイトに掲載できるよう、画像を送っていただくお願いをしています。)

また、スケッチ教室のかつての彼女の仲間たち、「スケッチ・グループ」が、パーギャルさんからこの絵を購入してご遺族に贈るため、カンパを始めています。

集まった金額が$1,500に達した時点で、絵はスケッチ・グループに売却され、スケッチ・グループから、日本のご遺族に送られます。パーギャルさんはそのお金で、熱田さんを記念した「スケッチ・グループ賞」を創設すると発表しました。毎年二月にスケッチ教室が開催する展覧会で授賞式が行われます。

また来年二月の展覧会は、熱田さんをモデルにした作品で構成し、彼女に捧げるイベントとなります。

ロックポート・アート協会のウェブサイトは www.rockportartassn.org です。

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September 04, 2004

8月26日、メモリアル・サービスでのスピーチ

8月26日夕、メモリアル・サービスで、友人のセス・マーシュさんがしてくれたスピーチです。


 CSCはあこが1年間勤めたコンピューターの会社だ。そこであこの「さよならパーティー」が開かれた時のこと。彼女は椅子に深く越し掛け、ある事業計画を口にした。

 あこは想像力溢れる女性で、何でも一直線に突っ走るタイプだった。実は前にも僕はあこの「計画」を聞いたことがある。あれは確か、フォーチュンクッキーの工房を始めようとか何とか言っていた。2人で中華料理を食べた時にあこのフォーチュンクッキーのおみくじは、あまりハッピーなものではなくて、彼女はえらく落ち込んでいたんだ。食事が終わると「私、いいこと思いついた」と工房の話を始めた。

 パーティーの席上、あこが発表した「計画」も同じ類のものだった。「バーをやろうと思うの。もちろんちょっと変った店なんだけどね」。

 さよならパーティーには20人くらいの同僚が集まっていた。実際、あの時CSCは大変な目に合っていたころで、業績もむちゃくちゃだった。仲間は次々と解雇されていった。あこは先手を打ってクビを言い渡される前に辞めたわけだ。でも他の仲間も解雇通告をじっと待っているような状況だった。だからこのパーティーは最後のお祭り騒ぎってところだ。みんな明るくてちょっとハイになっていた。でも先は長くないことくらいみんなよく分かっていたんだ。

 仲間たちはあこの「バー計画」に耳を傾けた。が、だんだん困惑した表情に変っていく。

 「あこの店」はほかの店とちょっと違う。まず、2人までしかお客は中に入れない。狭くて、明かりもちょっと暗め。だから向こうの端までは見えない。ジャズが静かにリズムを刻む。表の通りは大騒ぎで混雑しているのに、この店に入るとしーんとして暗い。もし誰かと一緒になったとしても会話を交わすことなどはしない。

 CSCの仲間はじっと聞いていたけれど、信じられないといった顔つきだった。
「お客がたった2人だけ?」と素っ頓狂な声。「それじゃあ1週間でつぶれちゃうわよ」「何にもなくなっちゃうよ」「そんなのバカみたいじゃん!」
「そういうことじゃないのよ」とあこが手をヒラヒラさせてテーブルの周りのみんなを黙らせた。「あのさ、あのね」と次はバーテンダーの話を続ける。バーテンはすごく寡黙でさ、
じっと影に隠れちゃってるのよね。
 あこはバーテンがお客にどうやって接するのかをやって見せた。
 そっと近寄ってきて手をこうやってちょっとだけ上げるわけ。でね何かボソボソってささやくの。絶対ベラベラしゃべったりしないんだから。お客が何か考えたり、思いついたりするとね。そのバーテンは二言、三言ささやくの。それを聞くとお客の考えがささっとまとまるのよ。あ、そうかそうかって。だからさ、こんがらがって答えが欲しいなあって時に行ったらいいわけ。お酒なんて別に飲まなくたっていいんだから。

 同僚たちはそれを聞いて急に騒ぎ出した。いろいろな事を口々に言い出したんだ。月曜日の夜はさー、フットボールのスペシャルデーにしたら?サービスタイムはいつにする?ダーツもいいよねえ、そうだ、トップレスのお姉ちゃんを置くってのはどう?みんな「あこの店」を成功させようと必死だった。そしてあこのアイデアを何とか変えさせようとした。
 でもあこは頑固だった。その夜はああでもない、こうでもないとふざけあって更けていった。さて、とうとうお開きで別れる時になると、みんなあこを抱きしめて頑張ってねと言った。僕たちが外に出ると後ろの方から「あまり意固地になるなよー」とか「トップレスの女の子は使ってみてくれよなー」とか声が聞こえた。

 その夜、あこは大した役者だった。どれだけ冗談を言いまくっていたかわからないくらいだ。でも僕は思うんだ。儲けばっかり考える事ないんじゃないの、ホッとしたい時にいつでも立ち寄れる店があったっていいじゃないねえって言いたかったんじゃないかな。

 ある日あこが部屋から電話をかけてきた。気分が悪くて横になっていると言う。僕はすぐに彼女を訪ねた。熱がある。寒気もするし弱り果てていた。そのうち治るかと思っていたけれど、次の日になっても変らなかった。医者に行って薬をもらってきたが、熱はなかなか下がらない。

 突然、あこが起き上がってベッドサイドのテーブルに置いてあったノートを掴んだ。髪はボサボサで、頭を起こすだけでもクラクラしているようだった。でもその顔には何か決意のようなものが感じ取れた。「ねえ、何やってんだよ」と僕。「私、これから治すわよ」とあこは答えた。

 あこは僕にペンと時計を取ってと言った。これから自分の熱を記録するんだと言う。熱が上がったなと思ったら、体温計で熱を測り時間も一緒に書きとめる。ちょっとひいてきたかなと思った時も書いておくんだと説明してくれた。変な治し方だなと思ったが、それがあこのやり方だった。時計を握り締めてベッドの中でガタガタ震えている。腹這いになってへんちくりんな字だったけれど、自分の体温と時間を記録していった。次の日にはその記録が何ページにも増えた。快方に向かっていたが、完全に治るまで記録は続けられた。

 後になって考えてみると、あこはいつもそうだったんだなと思い当たった。もっとうまくなりたい、じっくり考えたい、情報収集しなきゃ。そんな時あこはいつでもペンと紙を手放さなかった。

 あこと僕がモントリオールに旅をした時のことだ。僕たちは騒がしい街の真ん中にあるユースホステルに宿を取った。フロント係は若い男だった。パリッと決めていてなかなか格好よかった。
 あこはすぐに「イイ男エディー」とあだ名をつけた。彼はエディーって名前ではなかったように思うけれど、とにかくいいやつだった。地図をくれて一番いいバスルームのある部屋を割り当ててくれた。ロビーで3人で長いことおしゃべりもした。
 「イイ男エディー」はあんたたちツイてるよ、と言った。先週は熱波でさ、暑くてどこにも行けやしなかった。部屋の中でじーっとしてるしかなかったんだぜ。ホント、ラッキーだよ。
 エディーは部屋に案内して、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。彼が行ってしまうと、あこは部屋の中をズルズルと足を引きずりながら歩き回った。
 「あんたたちツイてるよ、か」あこは言った。ふーん。ツイてるんだ。もう一度口の中でボソボソと繰り返した。その言葉の響きが気に入ったようだった。「イイ男エディー」は最初から分かっていたのね。私たちの間には特別な素敵な何かがありそうだってことを。「ツイてる」と声に出すと、それはますます真実味を帯びてくる。
 僕は荷物をベッドの上に放り投げた。あこは窓際に立ち、眼下の通りを見下ろした。車がたくさん行き交っていた。ファーストフードのお店のギラギラした明かりが射し込んできていた。酔っ払いが近くのバーからドッと出て来た。何だかうるさい夜になりそうだ。
 あこは頭を窓に押しつけた。そして「私たちツイてるわね」とつぶやいた。

(セス・マーシュ/翻訳・香取由美)

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September 03, 2004

8月26日夕、メモリアル・サービス

 8月26日夕、ボストン郊外のサマービルで、熱田千華子さんをしのぶメモリアル・サービスが開かれました。マサチューセッツで親しくしていた友人たちにお別れの機会をというご家族の配慮で、会場は元ルームメイトのデブ・ペックさんが自宅を提供してくれました。

 「アコ」を愛した友人たち、50人あまりが次々と駆けつけました。中庭には友人のクリスチャンさんが写したアコさんの美しい写真。グロースターのビーチを歩く姿、子供のような無邪気な笑顔、スイレンの池を泳ぐ素足――。

 友人が持ち寄ったたくさんの花束とロウソクの光に囲まれ、デブさんの司会でセレモニーが始まると、友人が1人ずつ前に出て、それぞれアコさんの思い出を披露しました。自分にとってアコさんがどれほど特別な人だったかを、競い合うように。明るくポジティブで、鋭い観察力の持ち主だったアコさんのエピソードはどれもユーモアにあふれ、みんな大笑いしながら、涙を流していました。長い付き合いの人も、1度だけの出会いの人も、アコさんが出会う人たちに鮮烈な印象を残していたことがしのばれます。これほどたくさんの素敵な人たちに愛されていたことが、何よりもアコさんの人柄を物語っていました。

 BGMにはアコさんが大好きだったU2やサザンオールスターズの音楽。英語のコラムとポエムをまとめた作品集と、アコさんが旅先で集めて大切に取っていた石のコレクションが参列者に配られました。

 友人のランディさんが写した大きなポートレートの中で、にっこりと微笑むアコさん。その前に遺骨が置かれ、セレモニーの締めくくりにお父様の熱田敏弘さんから参列者1人ひとりにお線香が渡されて、遺影の前に供えて黙祷を捧げました。セレモニーが終わってもみんななかなか会場をあとにできず、夜が更けるまで、アコさんの思い出を語り合っていました。

(鈴木聖子)

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